佐々木俊尚

日本の左派はいつから「リベラル」になったのか?

  • 2016.08.17

 以下はわたしの近著『21世紀の自由論〜優しいリアリズムの時代へ』(NHK出版)からの抜粋です。同書は日本の「リベラル」と呼ばれている勢力の問題点と、そこからどう脱却して日本人であるわたしたちが新たな政治哲学を構築していくことが可能かを論じているのですが、「リベラル」ということばの誤用がどこから始まったのかを以下の抜粋では指摘しています。

 補足しておくと、日本ではもともとリベラルには二つの意味がありました。まず第一に、「オールドリベラリスト」と呼ばれた人たち。これは戦前、欧米滞在経験があり、欧米リベラリズムの洗礼を受け、親米的・親英的な立ち位置に基づいていた人たちのことを指します。よりわかりやすく言えば、大正デモクラシーの体現者。

 第二に、アメリカのリベラル。端的に言えば、民主党のことです。日本の新聞では一九八〇年代まで、「リベラル」とはおもに米民主党のことを指し、日本国内の政治勢力に対してはこの言葉は使われていませんでした。

 というところで、以下は『21世紀の自由論』からの引用です。

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 最大の問題は、彼らが知的な人たちに見えて、実は根本の部分に政治哲学を持っていないことだ。端的にいえば、日本の「リベラル」はリベラリズムのような欧米の政治哲学とはほとんど何の関係もない。彼らの拠って立つのは、ただ「反権力」という立ち位置のみである。

 思想ではなく、立ち位置。

 そもそも彼らは、もともとは「リベラル」とは呼ばれていなかったし、みずからも名乗っていなかった。戦後メディア史の流れの中で言えば、一九五五年から九〇年代初頭までの昭和の時代、この勢力が名乗っていたのは「革新」だった。「進歩派」という呼び方もあった。保守と革新、保守系文化人と進歩派文化人。

 冷戦の時代に資本主義陣営と共産主義陣営があり、日本では前者を自民党と官僚、財界が体現し、後者を社会党や共産党などの革新政党が担っていると考えられていた。つまりは資本主義的な体制に対するアンチテーゼとしての革新、進歩派だったのだ。

 このころはリベラルという単語はおもに米国の民主党勢力を指すものとして使われていただけで、日本国内の政治勢力にリベラルという冠をつけた事例は、当時の新聞記事を調べても非常に少ない。一九九一年の朝日新聞には、「リベラル(進歩的)」とカギカッコで説明が加えられている。例外として、保守自民党の中でも比較的自由で進歩的な意見を持つ政治家が、「保守リベラル」と呼ばれていたケースがあるだけだ。たとえば河野洋平氏がそうだ。ロッキード事件のときに自民党を離れて新自由クラブを結成した河野氏や田川誠一氏、西岡武夫氏などが保守リベラルのポジションだった。

 それがなぜかリベラルに変わったのか。答は明快だ。一九九〇年代になって冷戦が終わり、共産主義の失敗が明らかになり、共産主義陣営を指す革新や進歩派ということばが使いにくくなったからである。それで代替用語として、進歩的なイメージがある「リベラル」が転用されるようになったのだ。

 リベラルが日本の政治で最初に公然と使われたのは、社会党の故山花貞雄氏が一九九五年、離党して新しい政治勢力を結成しようと「民主リベラル新党準備会」という名前の組織をつくったところからである。しかし山花氏の「リベラル新党」は結成予定のその日に阪神・淡路大震災が起きて頓挫して終わった。

 以降、革新や進歩派は「リベラル」と名称替えして、いまにいたる。しかしその勢力は、かつての反自民党・反資本主義の立ち位置だったころとほとんど変化しておらず、政治哲学ではない「反権力」という立ち位置にのみ依拠している。

 なぜこのような勢力が、日本の政治やマスメディアの中で大きな影響力を持つようになったのだろうか。

 後ほどくわしく説明するけれども、最初にわかりやすく見渡しておこう。これは日本の戦後メディア史に原因がある。一九五五年に保守合同があって自民党が成立し、「自民党の一党支配と万年野党の社会党」という体制がスタートした。このころから高度経済成長で日本は豊かになり、一九七〇年代には日本人の九割が「自分は中流」と認識する総中流社会が完成した。冷戦の時代、日本は米国の核の傘で安全保障は安定し、経済成長でだんだんと豊かになることを実感できた。

 総中流の構造に、メディア空間も引きずられた。安定している社会を支えているのは、自民党であり、財界であり、官僚である。つまり官僚と企業と政府自民党という三位一体が日本の総中流社会を支えるという堅固な基盤があり、そこでメディアの側が何ができるかというと、「反権力」という監視役としての役割でしかなかった。

 権力に対抗するメディアと、メディアが代弁する「市民」は自由と平等の擁護者であり、政府と財界のつくる安定的な基盤を批判するアウトサイダーの視点を持った人たちであるという「反権力」である。強者対弱者というような、非常にわかりやすい水戸黄門的な勧善懲悪の構図が色濃く抽出されていた。

 しかし政治的・思想的な対立軸がこのような安易な勧善懲悪では、有効な議論はできない。なぜなら勧善懲悪では、市民やメディアが一方的な善になってしまい、しかしその善であるという思想的な背景は何もないからだ。単に反権力であるということでしか担保されていないのである。では反権力の側が政権を握り、責任を負ったらどうなるのか?ということは誰も考えなかった。誰も考えなかったうちに時代が過ぎて自民党がいったん瓦解してしまい、うっかり反権力が政権をとってしまって何もないことが露呈してしまったのが、二〇〇九年の民主党政権だったといえるだろう。

 政治思想の対立軸としては、ヨーロッパやアメリカでは完全自由主義(リバタニアリズム)、積極的自由主義(ニューリベラリズム)、コミュニタリアニズム(共同体主義)、コンサバティズム(保守主義)がある。さらにそこから派生し、民主主義を世界に広めていこうと考える新保守主義(ネオコバサティブ、略称ネオコン)がある。リバタニアリズムは最近は新自由主義(ネオリベラリズム、通称ネオリベ)とも呼ばれている。

 しかしこうした政治思想のマトリックスは、日本の政治やメディアの現場にはついに導入されることはなかった。さまざまな要素がからんでいるが、ひとつの理由として言われているのは、自民党と官僚がリベラリズム的な分配政策も、リバタニアリズム的な自由な経済活動の推進も、両面でうまく進めていたということだ。この結果、自民党に対抗する社会党や新聞、テレビは有効な対立軸をつくることができず、ただ反対するだけの「反権力」に墜してしまったのだ。そしてメディア空間は、ますます水戸黄門的な勧善懲悪の構図に流れ込んでいった。

 それでも経済成長がつづいているあいだは、この構図の問題点が浮上してくることはそれほどなかった。昭和のころ、「経済一流、政治二流」という言葉があった。私はここに「メディア二流」も加えて良いのではないかと思うが、経済成長のエンジンがきちんと駆動していれば、さまざまな問題が起きても不満はさほど起きない。メディアがエンターテインメント的に水戸黄門をやっていても、特に障害にはならなかったのではないかと考えている。

 しかし反権力は思想ではなく、単なる立ち位置である。反権力ではない、独自の政治哲学を生み出せなかったところに、日本の「リベラル」の不幸があったといえるだろう。そして二十一世紀になってグローバル化と格差化の波に翻弄される日本社会では、「反権力」でしかない立ち位置は、完全に有効性を失っている。

(以上、引用終わり。なお『21世紀の自由論』はKindle Unlimitedの読み放題サービスでも読めますので、ぜひご一読ください)


参院選の投票先が悩ましいが......とりあえずの結論

  • 2016.07.07

今回の選挙でどこに投票するのかを考えるとき、たいへん悩ましいのは憲法改正の問題だ。わたしは九条は現状に合わせて改正するか、何らかの条項を加える必要があると思っているけれど、自民党が2012年につくった「憲法改正草案」は、まったく同意できない。しかし自民・公明の政権与党がこれまでにおこなってきた政策を私は妥当だと考えていて、ある程度支持している。つまり、この二重のジレンマをどう乗り越えて投票すればいいのか?という問題。

自民党憲法改正草案はまったく同意できない

自民党の憲法改正草案は、とにかくひどい。たとえば、自民党草案で新設された第24条「家族、婚姻等に関する基本原則」では「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」としている。しかし、そもそも家族が社会の基礎的な単位であるという定義そのものが2010年代の日本社会ではすでに崩壊しつつある。単身家庭が過半数を占め、結婚制度が衰退していくであろう今後の日本社会を規定していくためには、このような古臭い原則を導入すべきではない。

また現憲法の「公共の福祉」を、改正草案では「公益及び公の秩序」と言い換えている。公共の福祉があくまでも「誰かの人権が他者の人権を侵害する場合は、人権は何かしら制約される場合がある」という意味で使われるのに対し、改正草案の「公益及び公の秩序」は、このような人権と人権の相互調整だけでなく、「公」をより広義に解釈している。自民党のウェブサイトの憲法改正案Q&Aでは、こう書いている。

「意味が曖昧である『公共の福祉』という文言を『公益及び公の秩序』と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」

「『公の秩序』とは『社会秩序』のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、 当然のことです」

まるで古臭い道徳の教科書のような文章だ。しかしこのような「公」の拡大は、国家的な「公」ではなく新しい市民間の公共圏である「共」が求められている最近の社会の流れに、まったく沿っていない。

これからの社会で家族制度や公共圏をどう扱うのかというきわめてクリティカルな社会システムを論じる中で、自民党改正案のこれらの項目はあまりにも......ということだ。

そういうわけで参院選になったわけだけど...

そういう中で参院選がやってきて、改憲勢力(自民・公明・おおさか維新の会など)は、改憲の国民投票を可能にする3分の2の議席をとろうとしている。

自民党は「改憲は争点ではない」と積極的に発言していない。しかしそんなことを単純に信じる無邪気な人はあまりいないだろう。

テレビ朝日の党首討論で安倍首相は、「選挙というのはたくさん争点がある。われわれも憲法改正草案をつくり、示している。今回の政権公約でも、憲法改正について触れている。ただ争点にするのであれば、何条をどう変えていくかということにしなければいけない。まだ憲法審査会で収斂されていない。発議するのは国会だから、そこでしっかり議論して、国民投票で決める。それが憲法だ」(安倍首相「憲法改正は3年や4年で、できる話では全くない」

微妙にわかりづらい。争点にはしないが、しかし参院選後に「選挙抜き」で進めるかもよ、と読めなくはない。もちろん国民投票を乗り越えないと憲法は改正しないけど、「投票一発」ではうっかり変な結果になってしかねない危険があるというのは、イギリスのEU離脱で世界中が思い知らされたばかりだ。

民進党の岡田代表は、こう指摘している。まったくおっしゃるとおりだと思う。「野党第1党である民進党と話し合いたいと言うのなら、まずはとんでもない自民党の憲法改正草案を白紙にするべきではないか。そのくらいの覚悟があっておっしゃっているのかということを谷垣さんに言っている」「安倍総理は憲法改正にまったく触れず、総裁と幹事長で言っていることが全く違う。与党間でも自民党総裁と公明党の山口さんとで言っていることがまったく違う」

自民党の高村正彦副総裁は、参院選後に改憲する可能性について「10年先などの将来は知らないが、(当面)ゼロだ」と言っている。これもまあ信用はできないが、この記事で重要なのは、自民党以外の改憲勢力への高村さんの言及。

「おおさか維新の会も9条改正は『時期尚早』。公明党はもともと自民党とスタンスが違う」

公明党・おおさか維新は保守政党ではない

公明党は憲法九条については改正ではなく、条項を加える「加憲」が良いと主張している。そしてこの党の思想から、基本的人権の制限や保守的な社会観への回帰といったことを受け入れる可能性はきわめてゼロに近い。公明党は参院選公約には憲法改正についてこう掲げている。「恒久平和主義、基本的人権の尊重、国民主権主義という憲法3原則は、人類が長い時間をかけて獲得してきた普遍的な原則であり、これからもずっと守り続けていくべきだと考えています」。またおおさか維新の会も同様に、憲法改正については「身近で切実なテーマについて改正を発議」として、教育の無償化と統治機構改革、憲法裁判所の設置という三つの改正テーマを挙げている。これらも説得力があり、賛同だ。

先ほどの記事で、高村副総裁は、国会の憲法審査会で議論して、改憲勢力の理解を得られるような「特定の条項」を探す努力ははじめるとも言っている。「特定の条項」が何かというと、大災害時の国会議員の任期延長や、各都道府県ごとに最低1人参院議員を選出することなど。これが改憲の「入り口になる」という説明。

このあたりの流れはかなり論理的で、納得できるとわたしは個人的には受けとめている。今回の参院選で改憲勢力が3分の2をとれば憲法改正発議に持って行けるということが言われているが、改憲勢力は自民党(と日本のこころを大切にする党)だけではない。公明党とおおさか維新の会の同意がなければ、憲法改正発議はできない。

安倍政権はとかく全面的に否定する人たちが目立つけれども、TPP交渉成功や韓国との従軍慰安婦問題合意、農協改革などの政策に私はとても賛同しているし、何よりこれらはリベラリズム的な政策や取り組みである。アベノミクスも現状ではうまく行っていない点もあるが、しかしこのリベラル的な経済政策を私は支持し、岩盤規制の撤廃など長期的な将来に期待している。これらのリベラルな政策と、自民党の憲法改正草案は、同じ政党のものとも思えないほどだ。まあ改正草案は、民主党政権時代に下野していた谷垣自民党がつくったものなのだが......。

現時点での私の個人的判断として、安倍政権にたいしては、支持すべきところもあれば、支持できない部分もある。憲法についても、改正草案にはまったく同意できないが、九条の修正は必要だと考えている。民進党などの野党勢力にもがんばってほしいところだけれど、民進党の経済政策は現状ではあまりに曖昧すぎて同意できない。ただし、シルバー民主主義の問題にも積極的に切り込もうとしている細野豪志さんたちは支持したい。

わたしの現状での判断としては...

そうなると現状では、「与党の一角を担っているが、保守的な方向への改憲は考えていない」という勢力への期待がいちばん妥当という結論になる。つまり公明党と、おおさか維新の会だ。

というわけで、わたしはこのどちらかの党に投票しようかな、というのが今のところの考えだ。

「世界の警察」からアメリカはどう撤収していくのか

  • 2016.07.07

「フォリンアフェアーズリポート」日本語版の今月号(2016年7月号)に、リアリスト政治学の大家ミアシャイマー・シカゴ大教授が「アメリカはグローバルな軍事関与を控えよ」という原稿を書いていて、たいへん面白かった。

アメリカは冷戦終了の後、世界の各地に積極的に介入して覇権国家に対処するグローバルエンゲージメント、つまり「リベラルな覇権」戦略をとってきたけれど、これが膨大な軍事費を必要とし、さらに占領地における拒否反応とそれに伴うテロを引き起こして、アメリカ国民を疲弊させる結果となった。

だから「リベラルな覇権」戦略はそろそろ変更せざるをえない。かといってトランプが言うような孤立政策をとるのではなく、アメリカはかつてのオフショアバランシング戦略へ回帰せよ、というのがミアシャイマーの主張。「世界の警察官を務めるのではなく、台頭するパワーを牽制する役割は地域諸国にゆだね、必要な場合にだけ介入する」ということ。

歴史を見ると、たとえば中東ではアメリカは長くオフショアバランシング戦略をとってきた。油田地帯で特定の国が覇権確立するのを防止する役目はイギリスにゆだね、しかし1968年にイギリスが撤退を表明すると、今度はイランのパーレビ国王とサウジ王室に地域バランサーの役割をゆだねた。パーレビ体制が1979年のイラン革命で崩壊すると、アメリカは緊急展開部隊を整備して、イランイラク戦争でもイラクを支援するなど後方で立ち回ったけれど、軍事介入はしなかった。最終的に軍事介入をしたのは、イラクがクウェートを侵略し、サウジなど湾岸諸国を脅かしはじめてから。これが湾岸戦争。

ミアシャイマーは、アメリカは湾岸戦争のあとは中東とは距離を置いて、イランとイラクの相互牽制にゆだねればよかったのだ、と指摘してる。ヨーロッパへの介入も同じで、ソ連が崩壊して覇権がなくなった後は、ヨーロッパでの軍事を削減して、ロシアとの関係を改善してあとはヨーロッパ人に安全保障をゆだねればよかったのだ、と。

リアリズムは「世界を平和に」といったお題目ではなく、みずからの国の利益を現実的にどう守るかということを軸にするので、アメリカの見方にたてばオフショアバランシングは当然の方向になっていくのかも。特にトランプやバーニーサンダースが登場してきて、「アメリカ政府は世界の警察官から撤退し、国内の問題に目を向けて欲しい」という国民の声がきわめて大きくなっていることをあからさまにしてしまった以上、今後だれが大統領になるにしても、現在のグローバルエンゲージメント戦略は縮小の方向に行かざるをえないんじゃないかなと思う。

そうなってくると日本政府は、日米安保による安心・安全だけじゃなく、東南アジアや韓国なども含めた周辺国とともに覇権を牽制し、東アジアの安定を維持していかざるをえなくなる。「安保法制で安倍政権はアメリカと一緒に遠隔地の戦地に兵を送ろうとしている」論は、この事態になったときにどうするのかという問題。というか、安保法制はそもそもこういう予測されている未来を織り込んで議論されるべきだったはずなんだけど......。

ただミアシャイマーは、「欧州と中東からは撤退し、しかしアジアには今後も関与を」とも主張している。「中国封じ込めを地域国家にゆだねるのが理想的だが、それだけではうまく機能しない。中国は近隣諸国よりもはるかにパワフルなだけでなく、地域諸国が地理的に点在しているために中国への対抗バランスに向けた連帯や同盟を組織するのはむずかしい」。だから日本や東南アジアなどの地域諸国のこころみをうまく調整し、背後から支える必要がある、と。

なるほどね。だいぶ理解が深まりました。

「進め!!東大ブラック企業探偵団」作者が佐々木俊尚氏を直撃 幸せなキャリアの作り方とは

  • 2016.06.19

 元競技ダンス日本一の現役東大経済学部生で、講談社からライトノベルタッチの企業分析小説『進め!! 東大ブラック企業探偵団』を出して話題を集める、大熊将八君という人がいます。前にLIFE MAKERSのオープンイベントで登壇してもらい、アメリカのメディア事情を話していただきました。また大熊君自身のブログでインタビューしてもらったこともあり、クラウドファンディングで資金を集めてアメリカ新興メディアの突撃取材した折りには告知に協力しました。その彼がわたしの自宅兼オフィスにインタビューに来てくれて、その内容を寄稿してくれるというのでお願いいたしました。以下は、大熊君のまとめです。

「いい企業」を選ぶのではなく、「自分が何の専門家になるのか」を考える

大熊 お久しぶりです!本日はよろしくお願いします。

佐々木 こちらこそ、よくいらっしゃいました。新興メディアの旅から帰って、本をだしたんですね? 売れてるの?

大熊 はい。僕は先日、「進め??東大ブラック企業探偵団」という企業分析の本を出版しました。おかげさまで、重版出来!! していま1万1000部です。

佐々木 それはそれは。で、どんな本なんですか?

大熊 上場企業が公開している財務情報にもとづいて、「いい企業」「悪い企業」とはなんなのかを探求した本です。本書に出てくる「東大ブラック企業探偵団」はもともと、僕が参加していた、インカレサークルの「瀧本哲史ゼミ」がモデルとなっています。執筆の背景には、かつての日本と違い、人材を育てる余裕のない会社が増えてきていて、幸せに働くことが難しくなってきているという危機感があります。
そこで今日は、毎日新聞社という大企業で働いた経験を持ちながら現在はフリーの作家・ジャーナリストとして活躍され、自身のSNSや著書での発信を通じこれからの働き方・生き方について積極的に提言されている佐々木さんから「どうやったら幸せに働けるのか」について勉強させてもらいたいと思い、ご自宅で、対談の場を設けていただきました。ほんとうにありがとうございます。

佐々木 なるほど。よろしくお願いします。はい、よろしくお願いします。でも、まぁ、はじめに言っておくと、「いい企業」なんてものはありませんよ。

大熊 えっ!?。

佐々木 企業にいい・悪いがあるとか、そういう設定自体が正しくないんじゃないですか。今儲かっているところを「いい企業」としても、そこが10年後もいいとは限りません。新卒採用で入れば一生安泰な企業なんてない。大事なのは企業選びではなく、「自分が何の専門家になるのか」という観点を持つことです。20年前にシャープやソニーに入った人は、それぞれの会社がいまこんな状態になるとは夢にも思わなかったでしょう。そこでの選択を、今になって後悔してもしょうがない。現時点でいい企業かどうかなんて重要じゃないと気づくべきです。

大熊 本書の中では、変化できる企業をいい企業だとしています。激務であっても、高い技能が得られれば良いと主張していますが......。

佐々木 いままで変化に対応してきた企業であっても、経営者が変わったり、時がたつにつれて企業文化が変わるかもしれないじゃないですか。会社を選ぶんじゃなくて、職を選ぶという発想が重要です。雇用の形態は大きく「ジョブ型」と「パートナー型」の2つに分類できます。欧米諸国では前者を主に採用していて、営業のスペシャリストになる、あるいは経営を専門的に突き詰めていくといったように、どういった職能に絞って仕事をするのかという発想をします。

 一方パートナーシップ型は、特定の会社でキャリアアップすることに焦点があてられています。例えばソニーならソニーの事業部で営業をやって、経理も経験して......というように、「ソニーマン」になることが求められます。この仕組みはジェネラリストを育てるといいますが、その会社の専門家を育てているにすぎないんです。ある会社での、稟議の通し方や、派閥抗争に勝ち抜くための技術しか身につかない。ひとたびその会社が倒産したり吸収合併された途端にその常識は通らなくなります。

「俺は実はもともとすごい会社にいて......」でいいのか

大熊 実際、シャープをリストラされた人の再就職先がなかなか見つからないという問題が発生しているようですね。今までシャープという大企業の看板を使って仕事をしていたけれど、それがなくなった途端に何もできなくなる、と。

佐々木 ただ、多くの電機メーカーがリストラをしている中で、技術力や開発力がある人材はアイリスオーヤマのようなユニークなメーカーに転職して成功しています。
一生のリスクヘッジをしたいなら、会社を選ぶなんて考え方は一切捨てるべきです。入り口はなんだってよくて、何をする人になりたいか次第じゃないですか。

大熊 自分がなりたいものとマクロの市況環境のマッチングは重要かなと思っています。
佐々木さんが新聞社を辞めてライターになられたときは、雑誌が全盛期で、ライター需要がとても高かった。でもWebメディアが溢れる今日、はたしてこれからフリーライターとう選択があるかと言うと......。かえり市況が厳しい今から僕が作家になりたいと考えても難しいですよね。

佐々木 市場があるかどうかという観点は非常に大事です。でも、いま市場がないから永遠に市場がないかというとそうでもない。Webメディアのせいで、既存のメディアが苦境に陥ったためそのためにライターは食えなくなっていると言われていますが、メディア自体は増えているのだから、ものを書くという市場は全体で見たら大きくなっているという捉え方も出来ます。未来を予測しきることは難しいので、その都度判断するしかありません。ジョブ型志向で働くことも、よくよく考えないといけませんね。

......とさらに「就職」にまつわるさまざまな話が続いていきますが、この続きはメルマガ「未来地図レポート」で! 購読はこちらから。

あいまいな「思考」というものを11の公式に落とし込む:「思考のスイッチ」

  • 2016.03.29

 この「思考のスイッチ」という本、ほんとに面白かったです。「面白くて使える思考本」というキャッチフレーズ通り、「思考」っていう一見高尚なものを因数分解してパターン化している。インターネットのロジカル中心時代に適合した感じのアプローチですね。

 「新しいアイデアを出せ」って言われてもなにをどう考えればさえ思いつかないと受けとめる人が多いと思いますが、この本ではアイデアと思考を分離して、思考は「思いつく一連の過程」、そしてアイデアが「思考の結果生まれたもの」と定義。そして思考を11の公式に分類しています。

 「常識→非常識術」「ライバル接着術」「付属品接着術」「限定術」「順番入れ替え術」「他者憑依術」「鉄板モチーフ術」「ワールドレコード術」「ニュースコラボ術」「著名フレーム利用術」「4大欲求満たし術」

 タイトルだけ見ると何のことやらわかりませんが、たとえば冒頭に紹介されている「常識→非常識術」のお題では、立ち食い蕎麦屋の新しいアイデアをこの公式で考えています。立ち食い蕎麦の常識は、

 「気軽に入れる」「安い」「早い」

 これを全部非常識に転換すると、

 「会員制」「一杯二千円」「出てくるまで三十分」

 そうすると会員制で値段の高い蕎麦屋、っていう新しい業態が思いつくというわけです。そんなアホな店あるか、と思う人もいるかもしれませんが、しばらく前に爆発的な人気になったレストランチェーン「俺のフレンチ」なんて、「高級で座って食べる」というフレンチの常識を、「安価な値段で立って食べる」とひっくり返して非常識にしているわけで、まさにこの「常識→非常識術」を地で行っている感じです。

 ほかにも面白いお題がたくさん紹介されており、なんだか目からウロコが落ちる感じのたいへん勉強になる本でした。著者は電通出身のクリエイティブ・ディレクター、西島知宏さん。「街角のクリエイティブ」というウェブメディアの編集長も務められています。

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 『思考のスイッチ 人生を切り替える11の公式』(フォレスト出版)

親密でとても心地のよい食卓。「イタリア料理の本」に安らぐ

  • 2015.11.13

 アノニマ・スタジオという出版社が蔵前にある。ライフスタイルに関するものや絵本を中心に刊行している小さな会社で、わたしはここの本がとても好きだ。高山なおみさんの料理の本、世界のさまざまなレシピの本。

 そういう作品のひとつに、「イタリア料理の本」というなんともシンプルなタイトルの本がある。箔押しされたシンプルで上品なブックデザイン。そしてページを開いてみると、非常に驚かされる。ページいっぱいに印刷された写真は、どれも薄暗い。ぼんやりとしていて、鮮やかな原色などほとんど出てこない。

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 だからといって美味しそうじゃないかと言うと、全然そんなことはない。何というか、こういうイメージだ。南欧の強すぎる太陽の光、きらきら光る地中海の水面。そんな光景を見ながら訪ねていった先は、親しみやすい地元のおばさんが経営している食堂。中に入ると強い光は遮断されていて、ひんやりとしたやさしい薄暗がりが身体にやさしい。その食堂でおばさんは、地元の料理をそのままに出してくれる。座って待っていると、鶏とにんにくを煮込んでいるとてもいい香りが親密な空間に立ちこめてくる。

 ステレオタイプではない、親密で心地の良いイタリア料理。わたしはこの本からいくつかのレシピを学んで、たくさんの刺激も受けた。そのなかでも、いちばん気に入ってときどき作っているのがこれだ。「玉ねぎのフリッタータ」。

 ものすごくシンプルな料理である。大きな玉ねぎ一個を薄切りにして、たっぷりのオリーブ油とともにフライパンでゆっくりと炒める。とろりとなったら、薄めに塩かげんして、溶き卵一個分を流し入れる。大きく混ぜて、ほんのり半熟になったところで火を止める。ただこれだけ。「ただの玉ねぎ炒めじゃないか!」という人もいそうだけど、たっぷりのオリーブ油で炒めること、そして大きな玉ねぎ一個に対して卵をわずか一個しか入れないということが、普通の玉ねぎ炒めとまったく違う料理にしている。

 著者の米沢亜衣さんは、こんな思い出話をレシピによせている。素敵だ。

いつもは肉が食卓に並ぶトスカーナの家で、たまに、今日は肉がないから......と作ってくれるのがフリッタータ(卵焼き)だった。玉ねぎだけ、ズッキーニと玉ねぎ、カルチョーフィと生ハムの切れ端。具はこの3パターンで、卵はつなぎ程度にしか入らない。ほんの少しの卵で、しかしこんなにも卵の役どころを感じさせる料理を、私は他に知らない。

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地道にコツコツと仕事に向かい、そして悩む。25歳の「ワーキングピュア」たち

  • 2015.10.27

25歳の若者たちは仕事に対してどんな意識を持ち、どんな環境で働いているのだろうか? そういう調査が連合(日本労働組合総連合会)などによっておこなわれ、その内容をとても読みやすくまとめた本『ワーキングピュア白書 地道にマジメに働く25歳世代』(プロジェクト25実行委員会、日経BP)を読んだ。

「はじめに」に、こうある。

25歳世代への取材を通じて見えてきたのは、彼ら、彼女らが、どのような環境にあっても、コツコツとまじめに働き、地道に生きようと努力しているという事実だった。
だれも皆、純粋にそして前向きに仕事と向き合おうとしている。

「ワーキングピュア」ということばは、そういう彼らの姿勢から名づけたそうだ。わたし自身が若い世代とつきあっている経験からも、本当にそうだと思う。

いまの時代に、自分にとって的確なロールモデルを探すというのはとても難しいだろうなと思う。たとえば、終身雇用が当たり前の時代だったころの「社内処世術」なんて今の時代にはあまり役に立たない。バブル世代は「昔は良かった」という懐古にいきがちだし、団塊ジュニア世代は就職氷河期のころからみな酷い目に遭ってきて疲れ切っている。その下の世代は元気だが、その活力をどこに向ければいいのかという明確な方位は見えにくい。とりあえず皆が試行錯誤するしかないのだ。

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さまざまな25歳が紹介されている。

会社員男性。大学在学中にインターンで働いたネット通販のベンチャーにそのまま就職した。上司は毎日終電で、社員全員がいっぱいいっぱいの状況。残業時間は月に100時間を超えたが、給料は上がらない。会社と自分が同化して「明るい宗教団体」みたいな感じの社風のなかで、ついに入社1年目にして身体を壊してしまう。倉庫に異動になったが、今度はパートさんたちとの関係がうまく行かず、上司との面談では「コミュニケーションを何とかしろ」と100回以上も言われ、ついに退職。決意したきっかけは、外部の勉強会に出るようになって自分の会社や仕事を客観的に見られるようになったことだったという。いまは人材開発会社で働いている。

介護福祉士の仕事をしている女性。大学の社会福祉学科を卒業し、現場を学ぼうと介護福祉施設に入った。残業代はほとんど出ず、日中の勤務でも休憩はない。入所者から暴言を吐かれたり、暴力を受けることもある。しかし1、2年もかけて声かけの方法を変えることで暴言が減ることもあるし、年齢の近い同僚と「こんなことがあった」と話し合うことで心を持ち直すこともある。そうやって頑張ってきた。嫌なことを家に持ち帰りたくないので、仕事の悩みは家族には話さない。

大手商社でITシステムの構築にたずさわっている男性。給料に不満はなく、今のところ解雇される心配もなく、恵まれていると感じる。しかし決定が遅く、社内政治が面倒な企業文化にこのままどっぷりと浸っていていいのかと思う。おまけに仕事は外部のITベンダーの管理をしているだけで、自分が直接プロジェクトを動かしているわけではなく、スキルが上がっていかないことに焦っている。転職してみたいが、リスクが不安で踏み切れない。

みんな将来に不安を感じているが、かといってその不安をどう乗り越えればいいのかという明快な回答はない。周囲に相談できる人も少ない。そういう状態にあがき、それでもポジティブに前に進もうとしている。そういう若い世代のすなおな心情が、すっと心に入ってくる。共感できる良い本です。

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彼らはずっと戦闘と戦死への準備をしてきた。あまりにもリアルな「自衛隊のリアル」

  • 2015.10.22

防衛大を卒業し、しかし自衛隊には任官せず毎日新聞記者になった瀧野隆浩さんの新しい本『自衛隊のリアル』(河出書房新社)を読んだ。豊富な自衛隊人脈をもとに、自衛隊員たちがいったいどのように考え、悩み、そして「戦闘」や「戦死」というリスクに向き合っているのかが、鮮やかに描かれている。

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1999年3月、能登半島の沖で不審船が領海侵犯した事件があった。北朝鮮のものと見られるこの船はスピードが速く、海上保安庁の巡視船は振り切られてしまう。最終的に追尾できたのは海上自衛隊の護衛艦「はるな」「みょうこう」だけで、政府はついに史上初めての「海上警備行動(海警)」を発令。領海内で沈黙のまま停止している不審船に対して、「みょうこう」の乗組員が立ち入り検査を行うことになった。

ところが護衛艦の乗組員は近接戦闘の訓練など受けておらず、そもそも防弾チョッキさえなかった。この状態で突入するのか? 本書は緊迫のその艦内を克明に描写する。

約200人の乗員のうち、決死隊は約20人。10分の1で当たる「貧乏くじ」といいっていい。 「オレかよー」「マジ?本当にやんの」「やんないはずじゃないのか」。決して大声にはならない、しかし、不安の湿り気を含んだ声で食堂はざわついた。

集まってきた隊員を見て、伊藤(「みょうこう」航海長)は息を飲んだ。カポックと呼ばれる救命胴衣の下の腹に、『少年マガジン』などの漫画雑誌をガムテープでぐるぐる巻きにしていた。防弾効果はさほど期待できない。気休めでしかない。だが、防護衣はないのだ。陸自が部隊からかき集めて持っていく用意はしていても、実際には届いていない。だから、彼らは漫画雑誌を巻くことで覚悟を決めたのだ。

由岐中「みょうこう」船務長は、志願して決死隊の指揮をとった。当時39歳。著者のインタビューで「そうか、やはりあの時は死ぬことを意識したんだな」と聞かれ、こう答えている。

「うん。もうひとつ思ったのは、『しょーがねーな』っていうこと。防大入った18のときから、育ててもらったとオレは思っている。でも、こうなるのも国の意思だ。いま立ち入り検査とかやってもたいした成果は得られないかもしれないけど、でも、それはそのときの国家意思なんだから、しょーがねーか、と。しょーがねーというのかなぁ......いや、あとで少しばかりカッコいい言葉に言い換えれば『百年兵を養うは......』っていう言葉になるんだろうけど、実際、その時思ったのは、しょーがねーよな、って。そういうものなんだよな、逃げも隠れもできないよな、って」

『百年兵を養うは』というのは、山本五十六連合艦隊司令長官の名言だという。「百年兵を養うは、ただ平和を護らんがためである」。そして自衛隊員たちがまさに突入しようとした時、突如として不審船は動きだし、領海の外へと去った。決死隊は死なずにすんだのだった。

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著者は、自衛隊は変わってきたという。戦闘ということが現実的な可能性ではなかった1980年代。90年代にはいってPKOがスタートし、戦地イラクに派遣され、「殺す/殺される」「撃つ/撃たれる」ということがリアルになっていく。そのリアルを自衛隊は受け入れ、制度的にも精神的にも準備と覚悟を進めていったのだという。

「戦闘」と「死」というものをリアルに考えるようになっていったのだ。それがこの20年の自衛隊の道のりだったのだという。著者は書く。

陸自は組織として、隊員の「死」に対する準備を進めていった。私はそれを「死の内在化」、あるいは「制度化」と呼ぶことにしている。

そうやって覚悟を決めてきた自衛隊のリアルについて、私たちはほとんど目を向けてこなかった。国会やマスコミやネットでは「自衛隊員のリスクは高まらない」「自衛隊員を死に追いやるのか」と議論がおこなわれ、しかしそれらは政権批判の材料だったり、自分の主張を押し通すためのものであったりするばかりで、みな「自分の空想の中の自衛隊員」に憑依しているだけだ。議論はつねに空中戦になってしまう。

自衛隊という軍隊を私たち日本社会が引き受け、どう関係し、どうやってともに歩んでいくのか。その議論をするためのまず最初の土台として、私たちは自衛隊のリアルにもっともっと目を向け、真摯に向き合うべきだと心から思う。

「自衛隊は、本当に撃てるのか」。著者は、自衛隊をすでに退官した同級生に聞く。短い答が返ってくる。「やるさ。おれたちはこれまでずっとキツいことをやってきた」


あなたなら何を食べたい? 書籍『人生最後のご馳走』

  • 2015.10.17

 大阪市に淀川キリスト教病院というホスピスがある。末期のがん患者が延命治療をやめ、残された短い時間をおだやかに過ごすための場所だ。成人病棟の平均在院日数は、わずか三週間なんだという。なんだか切なくなってしまう数字だ。

 淀川キリスト教病院は「リクエスト食」という取り組みをしている。決められた病院食ではなく、患者さんひとりひとりが好きなメニューをリクエストできるんだって。それを優しい文章とともに紹介したのが、この『人生最後のご馳走』という本。

 金曜日の昼下がりになると、病院の管理栄養士の大谷幸子さんという優しそうな女性が、病室をたずねてまわる。ベッドサイドで患者さんにいま食べたいものや味つけの好みなどを聞いてまわるのだ。せかすことなく、世間話をするように、ゆっくりとていねいにヒヤリング。本の中ではこんなふうに描かれている。

「玉井さん、こんにちは。明日の夜は、お好きなメニューをリクエストしていただけるリクエスト食ですが、何か召し上がりたいですか」
「明日はね、熱々の天ぷらをお願いしたいんです」
「揚げたての熱々は美味しいですもんね。お好みの具はありますか」
「そうですねえ、海老とかイカとか......南京も好きです」
「他にはいかがですか。たとえば椎茸や大葉など、お好きなモノは何でもできますよ」
「わあ、椎茸も大葉も大好きです。でもそんなにいくつもいいんですか」
「お好みの量をご用意します。玉井さんは、普段から天ぷらはよく召し上がっておられたのですか」
「子供たちも大好きでね。最近は主人と二人ですし、この病気になってからは体に力が入らないので油が怖いから、家では揚げていなかったんです」

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 最後の食事になるかもしれない。そういう時に人が選ぶ献立には、その人の人生が色濃く投影されている。この本を読んだ人はたぶんみんな、「自分だったら何を選ぶだろう」と考えるんじゃないかな。

 私なら何を選ぶだろう。ここ最近、どうやって人生をシンプルにミニマルにしていくかということをとても考える。だから最後に食べる食事は、とてもシンプルなものがほしい。そう、たとえばいつも家で自分が作っているご飯と味噌汁。鍋で炊いたばかりの新米と、油揚げと菜っ葉の薄味の味噌汁かな。

 しみじみと読ませ人生の終わり方を考えさせる、いい本です。

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あなたなら何を食べたい? 書籍『人生最後のご馳走』

  • 2015.10.17

 大阪市に淀川キリスト教病院というホスピスがある。末期のがん患者が延命治療をやめ、残された短い時間をおだやかに過ごすための場所だ。成人病棟の平均在院日数は、わずか三週間なんだという。なんだか切なくなってしまう数字だ。

 淀川キリスト教病院は「リクエスト食」という取り組みをしている。決められた病院食ではなく、患者さんひとりひとりが好きなメニューをリクエストできるんだって。それを優しい文章とともに紹介したのが、この『人生最後のご馳走』という本。

 金曜日の昼下がりになると、病院の管理栄養士の大谷幸子さんという優しそうな女性が、病室をたずねてまわる。ベッドサイドで患者さんにいま食べたいものや味つけの好みなどを聞いてまわるのだ。せかすことなく、世間話をするように、ゆっくりとていねいにヒヤリング。本の中ではこんなふうに描かれている。

「玉井さん、こんにちは。明日の夜は、お好きなメニューをリクエストしていただけるリクエスト食ですが、何か召し上がりたいですか」
「明日はね、熱々の天ぷらをお願いしたいんです」
「揚げたての熱々は美味しいですもんね。お好みの具はありますか」
「そうですねえ、海老とかイカとか......南京も好きです」
「他にはいかがですか。たとえば椎茸や大葉など、お好きなモノは何でもできますよ」
「わあ、椎茸も大葉も大好きです。でもそんなにいくつもいいんですか」
「お好みの量をご用意します。玉井さんは、普段から天ぷらはよく召し上がっておられたのですか」
「子供たちも大好きでね。最近は主人と二人ですし、この病気になってからは体に力が入らないので油が怖いから、家では揚げていなかったんです」

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 最後の食事になるかもしれない。そういう時に人が選ぶ献立には、その人の人生が色濃く投影されている。この本を読んだ人はたぶんみんな、「自分だったら何を選ぶだろう」と考えるんじゃないかな。

 私なら何を選ぶだろう。ここ最近、どうやって人生をシンプルにミニマルにしていくかということをとても考える。だから最後に食べる食事は、とてもシンプルなものがほしい。そう、たとえばいつも家で自分が作っているご飯と味噌汁。鍋で炊いたばかりの新米と、油揚げと菜っ葉の薄味の味噌汁かな。

 しみじみと読ませ人生の終わり方を考えさせる、いい本です。

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