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週末に読む:向き合う人生『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』

2014.03.15

 タイトルからすぐに「あっ!」と気づかれたかたもいるかもしれませんが、一部ではとても有名なブログ「特殊清掃 戦う男たち」を書籍化したものです。わたしも朝のキュレーションで、このブログの記事を何度となく紹介させていただいています。本書が刊行されたのは2012年なので、もう2年も前の本なのですが。

 「特殊清掃」というのは、人間の遺体や動物の死骸、ゴミ屋敷のゴミなど、ふつうの人だととうてい扱えないような特殊な汚染を処理するお仕事。そういう仕事を専門に手がけている人たちがちゃんと世の中にはいらっしゃって、本書ではその驚くべき仕事の内容を紹介されています。

 とはいえ、興味本位で気色悪いシーンやショッキングな話を次々描く、というような内容ではまったくありません。さまざまなかたちで人生が終わり、その事後処理に偶然にも立ち会うことで、その人と家族の生からさまざまな学びを得るというかたちで、本はつづられていきます。文章がなんともいえずに魅力的で、ときに淡々と、ときに重苦しく、ときには微苦笑をまじえながら、つねにある種の「諦観」のようなものが行間からにじみ出しているんですよね。こういうすごい文章を書ける人って、プロも含めてそうはいないと思います。

 さまざまなお話が出てきます。交通事故で亡くなった30代の男性。軽自動車で通勤中、交差点で信号待ちをしている時に後ろからきた猛スピードのトラックに追突され、そのまま建物の外壁に押しつぶされて亡くなった。


 目に飛び込んできた遺体を見て、私は絶句した。
 遺体は損傷が激しく、死後処置をどうこうできるレベルではなかった。腕や脚は不自然な向きに曲がり、何本かの指も引きちぎられていた。胴体は押し潰され、大きく口を開けた各所の傷から得体のしれない何かがはみ出ていた。頭も潰れ、顔もすでに人間ではなくなっていた。飛び出した眼球に寒気を覚えた。
 言葉は悪いが、ミンチ状態。
 「血だらけ」というか「肉だらけ」というか、それは酷いありさまだった。
 「せめて、顔だけでも見えるようにできないか」
 そう思って納体袋を開けた私だったが、手の施しようもなく黙って再び閉じるしかなかった。


 故人には妻と幼い子供がいて、奥さんは身元確認のために遺体を見ていました。とても話ができる状態ではなく、話をする必要もなく、著者は「私にできることは、空気のような存在になることくらいだった」と書きます。そして「一期一会」ということばを、ふと思いだすのです。「私も、真の意味を学んだことはないが、好きな言葉のひとつである。ただ、その意味を初対面の人に当てはめてしまいがち。本当は、いつも一緒にいる身近な人にも『一期一会』は当てはめたほうがいいのだろうと思う」と。

 お風呂場で亡くなり、そのまま浴槽の中で一週間経っていた遺体の跡を清掃した著者。浴槽のどろどろを取り除いていると、白く細長い人間の歯をいくつも見つけます。彼は書きます。


 浴室に一人しゃがみ込み、きれいになった故人の歯を手の平で見つめていると、人生の儚さと命の希少さがじんわりと伝わってきた。
 すると、悲しいわけでもないのに自分の目がうるんでくるのだった。
 自分をダメな人間だと卑下してしまうせいか、
 自分をマシな人間だと思えることがあるからか、
 社会的にはダメな仕事でも自分がマシな人間になれているせいか、
 ダメな自分でもマシな仕事をさせてもらえているからか、
 このとき、自分の目がなぜうるんだのか、自分でもわからなかった。


 本書を読む読者には、怖いもの見たさの興味本位ももちろんあります。私もそうでした。でもそれだけじゃなく、同時に「自分の身内がこういうふうに死んだらどうするだろう」「自分自身がこのような最期を迎えたらどうなんだろう」とつねに自分の身へと引き寄せてしまうような引力を本書は持っています。著者の文章がつねにそういう視点を帯びているからでしょう。だから読んでいる側も、つねにそのような視点に沿わされていくのです。そういう強い当事者性を隠し持った本だと思います。

 こういう体験を仕事として毎日のように引きうけている人の人生観。わたしにはとうてい想像もつかない域なのですが、著者はこう記されています。

 「私がこの仕事をはじめたのは、一九九二年、大学を卒業した年。当時二十三歳、重度の鬱状態に陥っている時期だった。就業の動機は、重い不幸感の反動と珍業への好奇心」「あれから、もう二十年が過ぎようとしている......。何の因果か、かなわぬ夢ばかりが空回りして現在に至っている。私の内には、非日常的な経験と思慮を要する体験が積み重なり、固有の死生観と人生観が養われている」