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週末に読む:1970年代の暴力革命がいま結実した。『ビッグの終焉』

2014.03.01

 著者はハーバード大学のビジネススクールで教えているニコ・メレさん。2003年の米大統領選民主党予備選挙で、ハワード・ディーン陣営が普通の市民から小額の政治資金をインターネットで経由で集めるという初めての試みを行って注目を集めましたが、この試みの発案者であり、実行者だった人です。

 この本の「ビッグの終焉」というのは、個人と個人が瞬時にどこでもつながることのできる過激な接続(ラジカル・コネクティビティ)によって、伝統的な大組織(ビッグ)が根底から揺らいでいることを指しています。こういえば「ああまたそういう本か」と思う人もいるでしょう。「スモールがビッグを破壊する」というのは10年前のロングテール理論から今日にいたるまで、たしかにあふれかえっている言説です。

 しかしこの本が非常に興味深いのは、この「スモールがビッグを破壊する」という事態がいったい何をもたらすのかを、善悪の両面を踏まえて論じていることでしょう。これまでインターネット的な言説は、つねにバラ色と悪夢の二軸対立に終始してきました。一方で「個人と個人がつながる世界はバラ色だ」と語る人たちがいる一方で、「伝統的な権威がゆらいでしまうと世界は混乱する」「人間性が失われる」とひたすら悪夢論で批判する人たちがいたわけです。この二つの両極端は、それこそ極左と極右のような対立と同じで、「極端」という一点において相似形を描いているものの、お互いが歩み寄ることはいっさいありません。ただ遠くから互いに石を投げ合っているだけだったのです。

 しかしテクノロジーを基盤とする社会の未来はバラ色でも悪夢でもなく、その中間領域にある灰色の部分にあります。その領域の中でどのような未来があり得るのかを少しずつ考えていかなければならない。そういう地道な作業が必要になってきているのです。

 メレさんはこの『ビッグの終焉』の中で、いま起きている変化を一種の「暴力革命」のように捉えています。革命には当然思想がなければなりませんが、ではいまの革命の思想はどこにあるのでしょうか。彼はそれを1970年代のカウンターカルチャーの中に求めています。本文から引用しましょう。

 「ベトナム戦争時代に起こった女性解放運動『ウーマン・リブ』のことはご存じだろう。実は、コンピュータを解放しようとする『コンピュータ・リブ』という運動も起こっていたのである。テッド・ネルソンが1974年に発表したきわめて重要な著作『コンピュータ・リブ??今こそコンピュータを理解できるし、理解できなければならない』は、すべてのナードたちに決起を迫った。個人のためのコンピューティングを要求し、コンピュータを、そう、ご想像のとおり、大きな機関の抑圧から解放するために立ち上がれと呼びかけたのである」

 70年代初頭には、どのようにして世界を解放するのか? そのためのツールとは何か? という議論が、特にアメリカのカウンターカルチャーの領域では非常に熱心に論じられていました。その文化に接していたひとりが、故スティーブ・ジョブズです。

 いま公開されているジョブズの伝記映画『スティーブ・ジョブズ』の冒頭のあたりに、まだアップルを創業する前のスティーブ・ジョブズが精神世界に傾倒し、LSD(幻覚剤)をきめるシーンがあります。LSDは1970年代のこのころ、「精神世界」的なものの象徴でした。LSDで自分たちの意識を拡大し、神秘的な体験が得られると若者たちは考えていたのです。

 アップルのパーソナルコンピュータも、そういうヒッピーな文化の延長線上にありました。コンピュータを単なる文房具としてでなく、人間の意識を拡大する大いなる存在だとジョブズは考えていたのです。そういう思考があったからこそ、初期の製品からMacやiPod、iPhone、iPadにいたるまで、シンプルかつ大きな一本の軸を通すことができているのでしょう。

 テッド・ネルソンの『コンピュータ・リブ』という本を残念ながら私は未見ですが、ウェブが発明される何十年も前なのに、すでにオンラインの概念が説明され、ハイパーリンクの世界まで描かれているそうです。そしてメレさんはこの本の中で好んでいる一文として、次のような文章を引用しています。

「民主主義と民主主義の未来に興味があるなら、コンピュータを理解しておいた方がいい」

 ネルソンは、これまでとは異なる新しい機関がこれからは作りあげられ、そしてそれを担うのはナード(オタク)であることを見抜き、「ナードは普通の人が理解できない隠語や専門用語を使うな」と説き、そして大型コンピュータをタイムシェアしていた当時の中央集権的なコンピュータ利用を糾弾し、パーソナルなコンピュータを作って「コンピュータを本来の意味で解放せよ」と訴えたのです。ここからジョブズやゲイツの革命がはじまり、コンピュータは世界に広まり、そしてインターネットがやってきたということなのです。

 最初のパーソナルコンピュータは、最初は単なる文房具としてしか見られていませんでした。タイプライターの代わりになる清書機、電卓が進化した表計算ソフト、お絵かきのできる電子文房具。しかしもはや単なる文房具である時代は終わり、メレさんのいうようなラジカル・コネクティビティを実現するテクノロジー基盤へと変化してきています。

 インターネットが普及し始めた1996年には、ジョン・ペリー・バーロウが「サイバースペース独立宣言」という文章を書いています。バーロウはロックバンド「グレイトフルデッド」の作詞家としても有名な人で、またホール・アース・カタログのブランドが作った草の根パソコン通信「WELL」の常連でもあり、ネットのプライバシーや表現の自由を考える電子フロンティア財団(EFF)の共同創設者でした。1970年代の解放思想の正当な継承者だったといえるでしょう。

 サイバースペース独立宣言は、次のような内容です(『次世代ウェブ』という本に掲載するため私が全訳したものから抜粋)

 産業の世界の政府たちよ、肉と鋼鉄でできたひ弱な巨人たちよ、私は精神の新たなよりどころであるサイバースペースからやってきた。未来のために、われわれは要求する。おまえたち過去の者どもは、われわれのことを放っておいてほしいと。おまえたちはわれわれにとって、歓迎できない客だ。我々の集まる場所で、おまえたちの権威は何の権威も持っていない。

 われわれは、人種や経済力、軍事力、生まれながらの身分などによるいかなる特権も偏見もない世界を作り上げようとしている。

 われわれの作り上げようとしている世界では、だれもが自分の信じることをいかなる場所ででも発信することが可能だ。仮にその考えが風変わりであっても、沈黙や順応を強制されることはない。

 所有や表現、アイデンティティ、運動、文化的背景に関するおまえたちの法的概念は、われわれの世界には適用されない。それらは物質的な社会に基づくものであって、われわれの世界はそうではないからだ。


 そしてこの宣言は、以下のように結ばれています。「われわれはサイバースペースの中に、精神文明を作り上げていくだろう。そしてその文明が、今までおまえたちが作ってきた政府よりもずっと公正で、人間的であることを祈りたい」

 しょせんは政府であろうがサイバースペースであろうが、それは人間がつくるものであり、人々のあいだの相互のパワーバランスによって成立するものでしかありません。だからいまの政府は「絶対悪」ではないし、夢想されるインターネット空間も「絶対善」にはならない。われわれの居場所はその中間の、グレーのところにあるわけで、その立ち位置を確認しなければなりません。

 とはいえそういう認識は、「コンピュータが人間の精神を解放し、サイバースペースが理想の世界を作る」と信じられていた20世紀にはまだなかった。この時代の牧歌的な、こういう思想的な流れの果てに、現在の状況がつくられてきたといえます。

 コンピュータ業界を作ってきた人たちの多くは、テッド・ネルソンからスティーブ・ジョブズ、ジョン・バーロウへと連綿とつらなっているこういうラジカルな思想潮流の影響を強く受けているのはまちがいありません。そしてこれが、これまでの国家や大企業といったビッグな規範的権力を衰退させ、ラジカルな思想を内包した破壊的プラットフォーム(つまりは新しい環境管理型権力)の出現へとつながっているということになるのでしょう。

 つまりは1970年代にまかれた種が、いまついに生長して花を咲かせようとしているということなのです。そしてこの花は美しく匂い立つ花なのか、それとも悪の華なのか。

 これは『レイヤー化する世界』でも書いたのですが、ネットが押しすすめる流動的な世界は、メレさんの言う通りに「大きなコミュニティ」を破壊していきます。そしてこれはプラットフォーム上での細分化されたクラスタ化を押しすすめ、「活用できる人」「活用できない人」の間に分断を引き起こし、「機会の平等」を毀損していくことになる。

 「レイヤー化する世界」でも、この格差化は大きなテーマになっています。現在のところこの問題に解答はなく、大きな移行期である現状ではわれわれはその格差化をかいくぐって生き延びるしかない、というのが私の現時点での暫定的結論です。

 一方、メレさんは「参考にできるような民主主義の事例はほとんどない。歴史に学ぶことができない状況で、デジタル時代を生きぬくには、実験を積み重ねていくしかない」と述べ、以下のような「私が出した一つの結論」を示しています。

 「アメリカ人が投票しないのは、自分たちの意思が統治に反映されていると思っていないからだ。新しい地方自治の形を作り、ラディカル・コネクティビティが生み出す現実にあわせて憲法を改正すれば、地域のコミュニティの政治が長い眠りから目覚め、アメリカ人が再び政治に参加する理由が生まれるだろう」

「自分たちの目で確かめられて、触れられて、実感できる近さと大きさの解決こそが、真の解決策となるだろう」

「私たちはまだ、大きな政府に代わるものを作りあげることに想像力を注いでいない。建国の価値観を守りながら、デジタル時代の現実であるラディカル・コネクティビティにうまく適応する新しいプロセス、新しい社会機構の未来像を描き、それを形にする必要がある」

 いま求められていて、しかし欠損していて批判されている政府の役割は、分配と横断ということなのでしょう。クラスター化が進むことで社会が分断していく中で、どう富や機会を分配していくのか。細分化していくクラスターをどう再接続させ、それらを横断するところに政策をつくっていくのか。ラディカル・コネクティビティが中心となる社会の中で、新たな分配・横断モデルが再構築されれば、それは将来の安定化したシステムとしてわれわれの世界に立ち現れてくることになるでしょう。