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週末に読む:歩きながら苦しむお遍路道『アルキヘンロズカン』

2014.01.31

 四国八十八か所のお遍路めぐりを題材にした漫画のKindle版。読んでいると、とても苦しい。

 八十八か所には、全行程を歩きたい人のために「遍路みち」が用意されています。田んぼのあぜ道から山道、川べりなどをつたって歩いて行くこのみちは、とても趣があってすばらしい。とはいえ全行程は1200キロぐらいもあり、歩き通すのはたいへんな、日本屈指のロングトレイルです。すべてを一気に歩くのを「通し打ち」といい、だいたい40日ぐらいはかかるようです。

 わたしは1999年の夏、新聞社を辞める直前に一番札所から二十二番までを1週間かけて歩いたことがあります。こういう歩き方を「区切り打ち」。いつかは残りを歩かなければなと思い、「それはふたたび人生の転機が訪れたときだ」と決めているのですが、あれから15年、幸か不幸か決定的な「転機」はとりあずまだやって来ていません。

 さて、この漫画の主人公は2人。売れない漫画家の男性と、仕事を辞めて1年間ニート生活を送っていた女性。ふたりが遍路みちで出会って恋愛するとか、そういうほのぼのした話ではありません。2人はほぼ同じ時期に遍路みちをまわって、ときおり一瞬だけ人生が交差するけれども、それ以上は交わりません。

 この2人が途上で出会う、さまざまな人たちがとてもリアルに描かれています。いろんな人が出てきます。退職者、学生、若いヤクザ、なにかに悩んでいる人。わたしが歩いたときも、さまざまな出会いがありました。実際に会ったわけじゃないけど、ある遍路宿では、質素な客室のちゃぶ台にだれもが書き込めるノートが置いてあり、手に取ってみると、こんな書き込みがありました。「妻を亡くし、遍路みちを歩いています。パスケースに妻の写真を入れ、首からぶら下げています。忘れよう、忘れようとしていますが、札所でお経を上げて祈るとき、いまもパスケースが落ちてきた涙で曇ってしまうのです」

 善い人ばかりではありません。歩き遍路から寸借だまし取ろうとする詐欺師や泥棒もいます。初めてきた遍路に無理矢理アドバイスしては何かと金をむしりとろうとする「職業遍路」も。この漫画には、嫌味を言うおじさんもリアルに描かれています。

 「あんたらはいいなあ。頼まれもしないのに寺まわって、宿を泊まり歩いて時間と金が余ってんのか? 若いのにうらやましい。あー、アレだろう。『自分探し』ってやつ。流行ってるもんなあ。こっちは毎日仕事で忙しくって、そんなもん探してる暇もねえよ。まったくいい御身分だねえ」

 「なあ?、自分のことなのに探さなきゃわかんないもんなの?」

 こういう人たちとの出会いと、2人の主人公の心の葛藤が、読み切りの連作短編のかたちで重ねられていて、しみじみと深く、そしてつらい。

 その中から、エピソードを2つだけ紹介しましょう。

 漫画家は、自分の人生を振り返るたびにもだえるほどに苦しみます。幼女エロ漫画を書いている彼は、出版社の編集者からは冷たくこう通告されます。「ぶっちゃけ君の漫画は誰も『得』しないんだよね 会社も読者も君も」

 まわりの同級生はみんな結婚し、子供も生まれ、年賀状も来なくなり、20年つきあいのあった友人は娘の生まれたことを彼に教えてくれませんでした。遍路みちを歩きながら、彼は心のなかで叫びます。「僕はお前らの人生なんか羨ましくない!大学生のバイトなみの年収だって悔しくない!僕には僕の生き方がある。漫画がある!」

 でももうひとつの声が反論するのです。「嘘だね......おまえはもう漫画をやめたくってしかたないんだろう。地に足着いた昔の友人や、楽しそうに活動する同業者がうらやましくて仕方ないんだろう? 惨めで寂しくてしかたないんだろう? なんだかんだカッコつけて四国に来てるが、実のところおまえは漫画やめる理由を探してるんだろう?」

 降り続ける雨。葛藤に苦しみながら、彼は室戸岬へとたどり着きます。観光名所として有名な夫婦岩を見て、彼は怒りだし、金剛杖を岩に打ちつけるのでした。「テメェ! 岩石の分際で! 人間様がひとりで苦しんでるのに、夫婦とかフザケンナあああああ」

 もうひとりの主人公の彼女は、仕事を辞めて一年間、働きに出ないまま実家でニート生活を続けていました。おばあちゃんがある日提案してきます。「お遍路に行ってきたら、もう一年家にお金を入れずに一日中グダグダする権利をあげます」

 でも歩いていても、塞いだ心はいっこうに明るくなりません。いつも彼女は苛立っています。

 「四国遍路なんていっても、しょせんは観光、道楽」

 たしかに休日には大型バスが集まって寺は人でごった返すし、歩き遍路も求道的な人なんてそんなにいません。「昨夜の宿はサービスが悪かった」「あれが美味しかった」といった俗世間的な話ばかりです。

 「でもいちばん気にいらないのが、寺の態度が悪い。こっちがまだ納経帳を片付けているのに、横向いてテレビ見始める。食事中だったのか、口をシーシーしながら納経帳に書き込む」

 彼女は納経帳でそういう対応をされて、思わず「あなたがた僧侶なら、もっと気持ちをこめてお経を書いたらどうなんですか」と言ってしまいます

 でもなんとも言えない後味の悪さに、茫然と境内で座りこんでいると、納経帳の窓口にいた青年がひとり近寄ってきました。

 「気を悪くしたなら許して」「でも誤解をしてるようだから、その訂正をしてもいいかな?」「僕らは寺に雇われてるパートで、お坊さんじゃないんですよ」

 坊主頭に作務衣姿で、どう見ても僧侶にしか見えない。「でもその頭は?」と女性が聞き返すと、彼は笑って答えました。「これはファッションで、まあ制服みたいなもの」「うちの納経帳はみんな地元の一般人だよ。地元で字の上手い人雇うの」

 「僕らは納経帳をわたされて、そこに文字を書き、返却する。それだけだよ。仏教のありがたさとか修業の尊さとか、そういったものは正直あまり関係ない」「とにかく余計なことは考えない。自分たちはお坊さんではなく、書くのが仕事なので、体裁も気にしてられない」

 「けっこうたいへんなんだよ......。休日には何百冊って納経帳が持ち込まれてずっと手もとに集中してなくちゃならないのに、やれ挨拶を返せとか返却に心がこもってないだとか、愛想がないだとか、怒り出す人も多いんだ。特に年配の人とか...。こっちはそれどころじゃないんだから!だいたいお寺が儲けてるほど僕らのお給金はそんなに......おっと!バチが当たるな......」

 「それにね、これはお姉さんがって意味じゃないんだけど、そういう事を言い出す人たちにも甘えがあるんじゃないかって思うんだ。自分はお遍路しているんだから、もっと大切にしろ!チヤホヤしろ!みたいな、さ。お遍路なら観光客じゃなく修行者なんだから、腹立てちゃダメでしょう」

 そうして青年はいくつかの実利的なアドバイスをくれ、そしてこう言い残して去って行きます。「それ僕のケータイ番号とメアド。困ったことがあったら連絡してね。近場ならクルマですぐ飛んでくから。じゃあお気をつけて」

 そうなんですよね。大切なのは納経帳そのものなんじゃなくて、お寺をまわって歩いて行くという行為そのもの。納経帳なんて、スタンプラリーのスタンプ帳ぐらいの意味しかないとわたしは思っています。

 たぶんだれでも、自分にとって不快な行為をする人を目の当たりにすると、わたしたちはその相手を非難したくなります。しかしそうやって非難しかえすという行為そのものもまた、どこかの誰かから......たとえば遍路みちだったら天空の弘法大師さんからの評価の対象になるということを忘れてはならないんじゃないかな、と思うんですよ。

 わたしが99年に二十二番まで歩いたとき、同じ行程をほぼ相前後して歩いている人が10人ほどいました。宿坊や遍路宿、路上などで毎日のように顔を合わせるので、だんだん顔なじみになっていくのです。その中に、最近定年下ばかりらしい60過ぎぐらいの男性がいました。この人がとてもうるさくて、その割りにしょっちゅうあちこちで出会うので、とても嫌だったのです。

 「一緒に歩きましょう」といいながら、途中で「歩くの遅いな......先に行きますよ」と吐き捨てるように言われたり、夕方にたどり着いた遍路宿で「今日は何時に出発したの?午前8時?なんだ、そんなに早くでて今ごろ着いたの」と言われたり。昭和ヒトケタ世代特有のモーレツ社員的競争意識が露骨で、「せっかくお遍路に来てるんだから、そんな競争意識やめればいいのに」と思い、そして「お遍路に心を清めようと思ってきたのに、こんな人に付き合わされるなんて」と自分の不運を呪いました。

 でも日々歩いているうちに、だんだんそう思わなくなっていったんですよね。こういう人に出会って「その時に自分がどういう心持ちを持てるかということも、この遍路で学ぶべき自分の試練なのでは」と感じるようになり、自分が他者になにかを求めるのではなく、他者の行為にたいして自分がどう対処するかこそが大切なのだと考えるようになりました。わたしはそんなに寛容な人間じゃなかったと思いますが、7月の遍路みちという、自然の光と色があふれた場所にずっといたということも、そういう寛容さを取り戻せる要因にはなったのかもしれません。

 この漫画を読んでいると、そんなことも思いだしました。苦しんでいる主人公二人は、歩いてるうちに少しずつ自分自身を取り戻し、もちろん実生活の問題は決して解決するわけじゃないんだけれど、その先に進む道筋を考えられるようになっていくのです。人生を考えさせられるエピソードがさまざまに詰まった作品です。