blog

超刺激的だが難解な本『なめらかな社会とその敵』が必読である理由

2013.03.14

 鈴木健さんの新著『なめらかな社会とその敵』が出ました。たいへんな話題になっているようです。



 とはいえこの本は数式もバンバン出てくるし、貨幣の新しいシステムを理解するためにはそれなりの知識も必要とするし、人によってはかなり読みづらく感じるでしょう。ちょっと手を出しづらい本なのは事実。値段も3200円とけっこう高いですしね。

 しかしこの本については、私は全力で「これはいま読むべきだ」と推します。今後の民主主義がどうなるのか、どういう方向へとわれわれは考えていくべきなのかというテーマに興味のある人なら、必読だと思います。

 なぜ必読なのかといえば、この本は従来からよくある「社会はこれからどう変わる?」の類書と比べて、決定的な違いが一つあるから。その違いとは、こういうことです。

「今後の民主主義や経済の可能性を抽象論ではなく、実際にきわめて具体的かつ詳細に設計し、その具体的なビジョンを提示している」

 数式がたくさん出てくるのは、それらの設計を具体的に行うためなのです。


3つのグラフが重要ポイント


 本書の土台の理念となっているのは、タイトルにもなっている「なめらかな社会」です。それを説明するために鈴木さんは、「ステップ関数」「フラットな関数」「シグモイド関数」という三つのグラフを提示しています。本を買われた人は40ページを開いてください。この三つのグラフが、本書の土台を明快に表しています。

 ステップ関数は、ゼロか1かの状態しか示さない関数。二元論的なグラフになります。


320px-Dirac_distribution_CDF.png
ヘヴィサイドの階段関数. In Wikipedia: The Free Encyclopedia. Retrieved from http://en.wikipedia.org/wiki/ヘヴィサイドの階段関数

今の日本はステップ関数だ

 ステップ関数の状態というのは、いまの日本社会の状態といっていいでしょう。「会社員」「非正規雇用」や、「結婚している関係」「結婚していない関係」、「日本人であること」「日本人でないこと」など、ありとあらゆる曲面で私たちは「そうであるか、ないか」という壁に隔てられています。

 人間はかならずどこかに一元的に所属しているというのは、近代社会の生み出した生き方のひとつかもしれません。「私は○○会社に所属している」「私は日本人である」というような帰属感です。これが国民国家のベースにもなっているのですが、中世までは国家への帰属感など希薄でした。

 鈴木さんは本書で書いています。「日本人が日本に所属しているというメンバーシップの境界は現在では比較的はっきりしているが、これは国民国家の仕組みが整備されてごく最近になって起きた、歴史的には例外といってもいい現象である。それ以前には、複数の国家に重層的に所属したり、逆にどこにも所属せず移動しながら生活するといったことに寛容であった」

 このあたりの問題意識は、今夏に刊行予定の私の新著テーマにもダイレクトにつながってきており、休暇中のパラオの海辺でこのくだりを読んで思わず私は「はっ」と立ち上がったほどでした。

「日本人」とはなにか?

 少し私の新著から抜き出して、説明してみましょう。

 江戸時代の普通の日本人は、日本人という意識なんてたいして持っていなかったと言われています。「薩摩藩のわたし」「会津藩のおいら」という藩や郷土の意識ぐらいしかなかったのです。

 江戸時代は鎖国し、日本の外側を意識する必要などまったくない社会でしたから、「自分は日本人だ」と考えることなどなかったのです。地球以外に住んでいる異星人を知らない私たちが、「われわれは地球人だ」と日ごろわざわざ考えることがほとんどないのと同じです。

 さらにいえば、天皇陛下に対する見方もいまの日本人と、江戸時代の日本人ではまったく違っていました。そもそも当時の日本人の多くは、天皇陛下という実在の人が京都にいらっしゃるということさえ知らなかったと言われています。

 天皇ということばはありましたが、なぜか聖徳太子とごっちゃになっていて、豊作を祈る神様ぐらいにしか思われていなかったようです。発音が似ているため、神社で良くまつられている牛頭天王(ごずてんのう)という神様と混同している人も多かったといいます。

 しかし幕末に開国すると、日本もヨーロッパの国民国家が持つ強い軍隊と対決しなければならなくなりました。放っておくと他のアジアの国のように侵略され、植民地にされてしまう危険があったからです。明治政府は官営で工場をつくって工業化をすすめ、徴兵制を敷いて国民の軍隊をつくり、「富国強兵」という政策にまい進していきます。

 しかし「国を強くしよう」「兵隊に行こう」とただ呼びかけるだけでは、日本人という意識がまだ薄かった当時の国民は動いてはくれそうにありません。大日本帝国という国家のもとに、国民全員が結集して力を尽くすというようなイメージ作戦が必要でした。

作られた天皇家のイメージ?

 そこで明治政府は、京都にひっそりと暮らしていた天皇家を引っぱり出し、新しい日本の元首になってもらおうと考えたのです。しかし単に新しい元首というだけでは、国民は納得してくれないかもしれません。そこで古代の天皇家のことを調べ、古い儀式や式典をつくりなおして、古代から今までずっと血筋の続いている「万世一系」をうたい、天皇家のイメージを高めたのでした。

 天皇家の儀式の多くは、古代から続いているわけではなく明治時代につくられたものです。たとえば皇太子殿下が結婚されると今でも大きな儀式が行われますが、そもそも日本には庶民もふくめて結婚の儀式などという伝統はなく、結婚式というのはヨーロッパから輸入された考えでした。しかし天皇家が結婚式をやるようになったため、一般の国民もまねて結婚式をおこなうようになったといわれています。

 また天皇家は古代の神を祀っているイメージがありますが、江戸時代までは天皇家のお葬式は仏前、つまり仏教式でした。明治政府が「古代の神」をイメージさせるために、お葬式も神式に替えさせたのです。

 このようなイメージ作戦がうまくいって、一般の国民もだんだんと天皇家を「むかしから日本のトップにいた偉い家系のかたがた」と認識するようになりました。それによって日本という国への愛国心が育てられ、「天皇陛下万歳!」と戦地におもむく兵士を生み出すようになったということなのです。

 近代がすすむ中で、ヨーロッパでも日本でも同じようなことが行われました。そこで国民国家という、それまでは存在しなかった新しいシステムが育てられていったのです。

 日本は島国で、中国大陸や朝鮮半島とは海で隔てられています。だから「日本という国民国家」が古代からあったと漠然と信じている人は多いでしょう。でも江戸時代ぐらいまでは、日本は国民国家ではなかったということなのです。「ここにいる私たちは同じような民族」「私たちはこの島々に住んでいる」そういう意識ぐらいはあったでしょう。でも日本民族が、日本というひとつの国家をつくり、そこに全員が所属しているという意識は、明治時代になってから生まれたものだったのです。

 国民国家というのは、ヨーロッパ近代のつくりだしたある種の幻想だったともいえるんですね。出版と新聞などのマスメディアでのつながりが国民国家をつくったという『想像の共同体』という名著もあります。

なめらかなシグモイド関数?

 さて、「なめらかな社会とその敵」に話を戻しましょう。

 一かゼロか、というステップ関数のパラメータをゼロにすると、グラフはベターッと真横に平たくなってしまいます。これがフラットな関数。だいぶ前にベストセラーになったトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』なんかを思いだしますね。私も『フラット革命』なんていう本を書いたことがあります。しかしその後のインターネットの普及によって現れてきた現象が示している通り、完全にフラットなんていうことはありません。

 たとえば「総表現社会」というのはウェブ2.0のときに梅田望夫さんが使った言葉ですが、これによって全員が平等に表現し発信できるようになったわけではありません。そこには新たな不平等が生まれ、強い発信者と弱い発信者の格差も当然生じます。フラットな世界というよりは、もっとごつごつした山脈のような世界がネットには出現してきているといっていいでしょう。

 鈴木さんは本書でこう書いています。「フラットな状態は、一元論的なものである。いたるところ平等で対等な状態を意味する。しかしここには、文化や多様性の源泉でもある非対称性が存在しないという問題がある。フラットな社会は一見理想的なようで、生命の持つ多様性を否定している」

 そこで鈴木さんが提唱するのが、シグモイド関数の世界。

Logistic-curve.png
シグモイド関数. In Wikipedia: The Free Encyclopedia. Retrieved from http://en.wikipedia.org/wiki/シグモイド関数


なめらかなシグモイド関数

 このように、ゼロか一かという区分けではなく、かといってフラットにベターッと平たいわけではなく、「なにかであることと、なにかでないこと」がなめらかにつながっている状態。これがシグモイド関数です。

 鈴木さんは書きます。「なめらかな社会では、社会の境界がはっきりとせず、だんだんと曖昧になっていく。ある人が日本人であると同時にフランス人であったり、ある土地が日本の土地であるのと同時にロシアの国土でもあったりする」

「近代国家は、土地や国民、法律などさまざまな境界を、国家のもとに一元化させてきた。なめらかな社会では、それらがばらばらに組み合わさった中間的な状況が許容されるようになる。中間的な状態が豊かに広がる社会では、お互いに完全に一致するアイデンティティを捜し出すことはほぼ不可能で、万人がマイノリティであるような社会をつくりだす。いままでの例外状態がほぼ例外ではなくなり、フラットやステップのような両極端な状態のほうが例外になる」

「会社という存在もまた考え直す必要がある。もし、ひとりの人が同時に2つ以上の職業につくことができれば、それは会社への依存関係をなくし、他の生き方や想像力を活性化させるにちがいない」

 これは作家平野啓一郎さんが書かれている「分人」にも非常に近い考え方ですね。『私とは何か 「個人」から「分人」へ』 という本が出ています。

 考えてみれば、従来の「公」である国民国家というのはつねに「内と外」を厳密に分けていく考え方だったともいえます。しかしこの区分けをデジタルにせずなめらかにすることによって、そのなめらか部分に、公でも私でもない「共」が生まれてくるのではないか。これこそが鈴木さんが本書で書こうとしている新たな社会構想の土台となっている部分なのです。

PICSYという概念を理解する

 さてこの本は、今後の社会システムについて抽象的に語るのではなく、きわめて具体的かつ詳細に来たるべきシステムを設計してしまっているところに真骨頂があります。本書ではそのシステムとして、伝播投資貨幣PICSYと伝播委任投票システム、構成的社会契約論という三つの柱で説明しています。この中から本記事では、PICSYをとりあげて説明してみましょう。

 伝播投資貨幣というのは、鈴木さんが以前から提唱されている通貨システムです。

 私たちが使っている普通のおかねは、金額が交換されるだけです。たとえば私がビジネス書を1300円で購入したとします。ビジネス書の著者の手に入るのは、10%印税の130円から所得税を引いた額。それ以上でもそれ以下でもありません。でも私はひょっとしたら、その本を読んで「そうだ、これだ!」とインスピレーションがひらめき、何かのビジネスをスタートさせ、それによって1000万円の儲けを売り上げるようなこともあるでしょう。

 しかしながら、ひらめきのもとになったビジネス書の著者にはお礼をいくら言っても言い足りないほどですが、私が払った1300円、著者が手にした130円以上の価値の交換は行われないですよね。著者としては自分の本で多くの人がビジネスをはじめてけっこう儲けているのに、自分のところに入ってくるのはしょせん数百万円の印税だけか......とちょびっとがっかりするでしょう。まあ偶然にパーティーか何かで私と著者が出会い、それをきっかけに私が「あれでビジネスが拓けました!」とお礼としてプレゼントを贈るというようなことは稀にはあるかもしれませんが......。

 PICSYは、この価値を貨幣にくっつけて流通させてしまおうというものです。つまり上記の例でいえば、もし私が1000万円を儲けたとすれば、そのうちの一部がひらめきのもとになった著者のところにも流れ込むようにする。そういう仕組みを内包した貨幣システムがPICSYなのです。

悪い医者を駆逐し、良い医者を評価する方法とは

 本の中では、良い医師と悪い医師の儲け方の違いというわかりやすい解説がされています。いまの貨幣経済では、悪い医師はすぐに患者の病気を治さず、過剰な薬を投与しつづけることでお金を儲けることができます。良い医師は不要な薬を売らず、すぐに患者を治してしまうので、あまり稼ぐことができません。

 しかし、評判や価値が貨幣と一緒に流通するPICSYの世界では、患者の具合がよくなって社会に大きく貢献し、患者の収入が増えると、それにともなって良い医師の口座の残高も増えていくということになります。悪い医師の場合は患者は寝ているだけなので患者の社会的位置は高まらず収入も増えず、したがって悪い医師の口座残高も増えません。

 鈴木さんはこう書いています。「こうして、医者が患者の将来を考えて治療をする強いインセンティブが、PICSYによって発生することになる。PICSYは経済倫理を下支えし、経済活動に関する人々のコミュニケーションダイナミクスを変えるのである」

 この価値や評価の流通というのは非常に斬新な概念です。大きなポイントのひとつとして、通常の貨幣は企業などに滞留して従業員や取引先などに分配されませんが、評価の流通は滞留せず循環し続けることです。どこかの企業が大儲けしても、その儲けの一部は、企業に対して貢献した取引先や従業員にリターンされていくからです。

 つまりはPICSYというのは、最近インターネットの世界でよく語られている評価経済のモデルと、現実の貨幣経済を融合させようという試みであるともいえます。評価経済に対しては「どんなにネットで評価されたって、そんなのメシの種にならないじゃないか!世の中最後はカネや」というような批判があるわけですが、PICSYでは貨幣経済の補完システムとして評価経済を採り入れるようになっており、この「評価経済では儲からない」というジレンマを乗り越えることができるわけです。

 加えてPICSYには、もうひとつの大きな意味があります。先ほども書いたように、貨幣は企業の中に蓄えられてしまうけれども、評価は蓄えられずつねに流通します。これは企業の壁をかんたんに乗り越え、組織の壁をこえて価値が伝播していくというシステムを生み出すことになるのです。これこそが、本書の世界観、つまり企業のウチソトを厳密に分けるのではなく、ウチソトがなめらかにつながっていく「なめらかな社会」の土台となっていくということなのです。

 だからこれは、たいへんな概念なんですよ。

このメッセージはしびれる!読むべし

 鈴木さんは書いています。「PCISYでは、人から人への価値の伝播が起こり、それは地球の裏側まで影響を与える。あるひとつの取引の効果が国境を越えて世界に波及する。その波及の程度は人によって異なるが、取引ネットワーク上の距離が遠くなるにつれ、だんだんと弱くなっていく。今ここで起きた取引と地球の裏側が、取引ネットワークを通してなめらかにつながるイメージが浮かび上がる。自分が作った経済活動は世界全体になめらかに影響を与え、地球の裏側の小さな事件が自分になめらかに影響を与える。PICSYの伝播効果を可視化するインターフェイスの開発によって、こうした世界観を人々はもつようになるだろう」

「PICSYという仕組みは、ひとりひとりが自分株を発行して、その自分株の金庫株で取引しているのと同様である。自分株の所有関係は自分がだれに依存していまここに生きているかという情報であり、自分が誰を部分的に養っているかという情報でもある。さらに言えば、自分という存在の価値もまた、たくさんの人々の貢献によっていまここに成り立っている共有物であるという感覚が生まれるだろう。自分という存在が世界の中で同心円状に広がっているという感覚こそ、近代社会を超える新しい世界観なのではないだろうか」

 私はこの文章を読んだとき、しびれるほどの感動を覚えました。きわめて明確な世界観、具体的ビジョン。この本は本当凄いです。ぜひ皆さんも一読を。


※これは2月25日と3月4日のメルマガ「未来地図レポート」233号、234号に掲載した記事の全文です。メルマガのお申し込みはこちらからどうぞ。