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「場」としての新しいネットメディアが間もなく登場してくる

2012.07.24

 今後のネットメディアが『場』として機能するためには、政治的に中立な立場を持っておかなければならない。

 中立という言葉を書くと、過激に反応する人はいるだろう。しかし誤解してほしくないが、私はポジショントークやバイアスみたいなものを否定しているわけではない。否定するどころか、「これからはポジショントークの時代だ」「自分の立ち位置を明確にした上で発言すればいい」と散々言ってきている。さらには新聞社の客観中立報道を強く批判してきている。「そんなの欺瞞だ」と。

 でもこういうバイアスが許されるのは、あくまでも発信者である個人(あるいは小さな報道チーム)に限られる。プラットフォーム側には、バイアスは許されない。

 これからの社会構造は次のように二分されると私は考えている。

< グローバルなプラットフォーム × モジュール化した個人 >

 グローバルなプラットフォームは、何でも呑み込む。清濁併せのむ水平分業の巨大インフラだ。私はこのグローバルプラットフォームを説明する例として、13世紀のモンゴル帝国を例に挙げたことがある。いま書いている新しい本(仮題『帝国とノマド』)でも、実はモンゴルのことを書いているのだ。このモンゴルを引き合いにして、プラットフォームの中立性の問題を説明してみよう。

 モンゴル帝国は13世紀にユーラシア大陸を支配した。この帝国は、世界史を大きく変えたといわれている。元朝は100年ぐらいで終わったが、末裔たちはその後ムガール帝国やロシアにも広がって長く影響を保ち続けた。このモンゴルはいったい何をもたらしたのだろう?

 モンゴル帝国以前のユーラシア大陸では、交易を行おうとしても、さまざまな国を経由するたびに関税を取られ、儲けを出すのがきわめて難しかった。ところが帝国が出現したことで関税は一本化され、何度も何度も税金を取られるということはなくなった。そして交易に不都合なことが起きれば、帝国の各所を領有する王にうかがいをたて、トラブルを解決することもできた。さらには不換紙幣も発行され、近代的な信用取引の原形となった。

 少し前の小説「世界を創った男 チンギス・ハン」(日経新聞に連載していたものだ)で作家の堺屋太一さんは、モンゴル帝国の統治思想について、次の三点を挙げている。

(1)叛乱を起こしたものは決して許さない大量報復思想
(2)多宗教・多民族・多言語・多文化を許容
(3)初めて不換紙幣本位制を作ったこと

 こういうモンゴルへの見方は必ずしも堺屋さんのオリジナルというわけではなく、たとえばモンゴル史の泰斗として著名な岡田英弘東京外国語大名誉教授は、『世界史の誕生
モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫)という本で、「13世紀のモンゴル帝国の建国は、世界史の始まりである」という刺激的な論考を展開し、その理由を以下の4つに挙げている。

(1)モンゴル帝国は、東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ『草原の道』を支配することによって、ユーラシア大陸に住むすべての人々を一つに結びつけ、世界史の舞台を準備した。

(2)モンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を統一したことによって、それまでに存在したあらゆる政権が一度ご破算になり、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が分かれた。それがもとになって、中国やロシアをはじめ、現代のアジアと東ヨーロッパの諸国が生まれてきた。

(3)北部中国で誕生していた資本主義経済が、草原の道を通って地中海世界へ伝わり、さらに西ヨーロッパ世界へと広がって、現代の幕を開けた。

(4)モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまった。このため、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が、活路を求めて海上貿易に進出し、歴史の主役がそれまでの大陸帝国から、海洋帝国へと変わっていった。

 このように中世にもグローバリゼーションが存在し、その中核にはモンゴル帝国があったということなのだ。そしてこのモンゴルのグローバリゼーションは、21世紀におけるアメリカの世界支配に非常に似ている。

 しかしアメリカは民主主義思想をグローバルプラットフォームに乗せて世界中に広めているが、モンゴルは思想的には非常にニュートラルで中立だった。思想や文化はいっさい押しつけず(そもそも草原の騎馬民族であるモンゴル人には、他民族に押しつけるような立派なオリジナル文化や思想なんかがなかったということなんだろう)、それぞれの民族の好きにさせた。そしてこのプラットフォームの中立性こそが、各民族の独自性を生かしながらも、ユーラシア大陸のすみずみまでをも経済的に結びつける原動力となったのである。

 プラットフォームの中立性というのは、だからとてもとても重要な性質だ。中立性が保たれなければ、そのプラットフォームは独占支配的な力を失ってしまう可能性がある。プラットフォーム上で流動的に動いていくモジュールを許容し、自由に好き勝手に活動させるからこそ、プラットフォームはプラットフォームとして存続できるということなのだ。

 いま書いている『帝国とノマド』はタイトルから想像されるかたもたぶんいらっしゃると思うけれど、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハートの『<帝国>』という異様に分厚い本を下敷きにしている。これからは国家に代わって<帝国>という世界的なプラットフォームが支配する時代になりますよ、ということを1990年代の終わりに哲学者が書いた本だ。当時はまだインターネットがそれほど普及していなかったけれど、いま読むとこの<帝国>というのは実はグーグルやアップル、アマゾンの出現を予言していたのでは?と思わせる。

 少し難しい話になるけれど、この本にはこう書いてある。ーー<帝国>は、絶えずシステムを再構成し続けている。いっぽうでモジュール(この本の中では「マルチチュード」という用語で呼ばれている)もまた、<帝国>に対抗する闘争を次々と引き起こしている。ノマド的に動きながら、個人と個人の混合の中で、<帝国>がシステムを変容させていく中で、つぎつぎに闘争のありかたとあらたな主体性が生産されていく。そしてそれは、<帝国>のひとつの構成物となっている。これこそがモジュールの特徴だ。つまり戦えば戦うほどモジュールは<帝国>をつくり出す源となるし、<帝国>はそういうモジュールなしには存続できない。

 つまり<帝国>とモジュールは、相互依存的な関係ということなのだ。<帝国>はモジュールを支配し服従させている。でも一方で、<帝国>はモジュールの活力を吸い上げて生き延びるだけの捕獲装置にすぎない。吸血鬼のように生き血を吸って生き延びているだけだ。

 モジュールの生き血を吸って生き延びていくプラットフォームという存在。その生存力の源泉は、中立性という蜜を与えることによって、多くのモジュールをミツバチのように吸い寄せるその魔力にあるといえる。

 その意味で言えば、いまの日本のネットメディアの多くはこの「場」としての中立性を担保できていないし、だからこそ広範囲な市場をカバーするビジネスを構築できていない。しかし機は熟している。これがどう転んでいくのかはまだわからないが、あらたな転換点を迎えている。そろそろ日本の未熟なネットメディアも、「中立性とは何か」というようなことを考えなければならない時期に来ているということだ。

 そもそもマスメディアは、「場」としてではなく「発信者」としてこれまで成長してきた。先ほども書いたように、「発信者」には中立性は必要ないと私は思っている。しかし新聞やテレビなどのマスメディアは、「発信者」としての中立性という幻想を追いかけてきた。そこにかなりの無理があったと思っているし、マスメディア言論が衰退した最大の原因はそこにあるとも考えている。

 しかし今後、メディアのビジネスモデルは「発信者」から「場」へと転換していくだろう。テレビ局も新聞社も雑誌編集部も、すべては「場」として受信ー発信の相互作用を生み出すコミュニティへと進化させていかなければ、生き残っていくことはできない。そしてそういう「場」の上で、多くの発信者が情報や論考を発信し、受信し、相互に意見を戦わせていく。それは時には無料で行われ、時には(メルマガのような形で)有料で行われる。そういう構図が、将来のメディアの全体像だ。

 であれば、これまで「幻想の中立性」を引っ張ってきたメディアは、今後「場としての中立性」というもっとリアルな中立性へと歩を進めていかなければならないということである。

「幻想の中立性」と「場としての中立性」

 この2つをきちんと分離し、後者の中立性というものがどのようなものなのか。それを思想のレベルにまで落とし込んで考えていくことが、今後のメディアにとっては非常に重要なテーマとなっていくだろう。

 今後、こうしたコンセプトに対応しうる力のあるネットメディアはいくつか登場してくるだろう。実はそういうプロジェクトを私はいくつか聞いていて、実際に参加も求められている。現時点ではまだ明かせないが、それらの登場はまもなくだ。さらにいえば、われらが希望の星ホリエモンも出所を待っている。彼は前にも書いたけれど、ネットメディアのビジネスにも野望を持っている。

 ホリエモンの出所は来年後半以降だ。そのころにはいまの日本社会の混乱はさらに加速しているだろう。グローバリゼーションはますます先進国を呑み込み、生活保護問題などで表れてきた分断や怒りはさらに噴出していくだろう。マスメディアが、そういう状況と真っ向から向き合うのは非常に難しい。だからこそそのころには、新たなメディアがさらに求められる状況が加速している。

 ニッポン放送買収騒ぎのときはたいへんな猛反発を受け、ライブドアはマスメディアへの参戦を事実上撤退せざるをえなかった。あのまったく時期もタイミングも考えない「空気の読まなさ」がホリエモンの面白いところでもあり、そしてまたビジネス戦略上の最大の欠点でもあるのだが、あれからすでに長い月日が経った。2010年代半ばになれば、時代の空気は一変していて、マスメディア参戦のハードルも大きく下がっているだろう。大きなタイミングがやってくるのだ。

 そう考えると、ホリエモンがいま刑務所暮らしをしているというのは、悪くないことかもしれない。だいたい彼はいつも常に「タイミングが早すぎる」のだ。だから彼の足を少しとどめ、適切なタイミングにまで彼の行動を遅らせ、彼の次の行動をジャストタイミングで起こさせるための装置として、刑務所暮らしはうまく作用しているということなのかもしれない。まあ本人がそれを聞いたら怒るかもしれないが。

 だからいまは粛々と、次の時代のメディアを待ち、私には私のできることを進めていく。雨の長野刑務所でホリエモンの面会を終えて、私はそんなことを考えたのだった。


※上記は7月23日(月曜日)配信のメールマガジン「未来地図レポート」203号から、特集記事のうちの1本を全文転載したものです。本サイトのmail magazineからお申し込みいただけます。7/29までに直接お申し込みいただければこの号も配信します。